榊󠄀山裕子の主な仕事より
芸術・表象・身体
彫刻と人形「再考」[後]
文・榊󠄀山裕子
『ドール・フォーラム・ジャパン』第50号(終刊号)33-39頁
ドール・フォーラム・ジャパン事務局 2007年6月15日発行
ピグマリオニズムと逆ピグマリオニズム
「人形愛」という言葉はあるが、彫刻愛という言葉はない。人形愛は澁澤龍彦の造語であった。
「人形愛」という新造語を初めて文章のなかで使ったのは、たぶん私だろうと思われるが、当初の私の意向では、この言葉はヨーロッパで用いられるピグマリオニズムの翻訳語のつもりだった。(澁澤龍彦「人形愛の形而上学(註1)」)
ところが、この訳語は問題含みではなかったか、と美術史家谷川渥は問いかける。ピグマリオニズムの由来となったピュグマリオン、オウィディウス『変身物語』に登場する、自分の作品を愛した男は人形師ではなくて彫刻家であった。そして彼の作品は人形ではなく象牙の彫像であった。また澁澤自身も、この「人形愛」という言葉に適う例として採り上げている諸例は人形にとどまってはいなかった。谷川はその点を指摘して次のように書いている。
しかし、もうひとつ決定的な問題が残されている。それは、「人形愛」という表現のもとで、彫刻と人形との原理的差異が問われずにすまされているということである。(谷川渥「彫刻と人形 比較論の地平(註2)」)
たしかに澁澤の「人形愛」において、「人形」という語には厳密な定義が与えられていない。「素材の差異はもとより、木彫や石彫などの伝統的な彫像と、人造人間、ロボットとの差異」(谷川渥、同前)さえもそこでは問われてはいなかった。いやそれどころか澁澤流の「窮極の人形愛(註3)」においては「対象の幻影だけで事足りる(註4)」。「幻影とはすなわち、人形(註5)」、「人形」は窮極的には「幻影」の別名だというのである。ただし澁澤の「幻影」は男性視点のそれ、男の側からの「幻想」である。そこには彼のエロティシズム論に見られるように、女は肉体に留まり、男だけが「精神の高みへと翔けあがる(註6)」ことができるという含意がある。
だが到達不可能な愛は男女を問わず人の愛の在り方そのものであるということ、人はあらかじめ失われた対象を求め続け「出遇い損ね」続けていることを示したのが、藤田博史が本誌連載の「人◇形◇愛の精神分析(註7)」で用いた新造語「人◇形◇愛」であった。これは人(想像界)と形(象徴界)と愛(現実界)の間に◇=錐印(ポワンソン)という「一体化の不可能性を告げる刻印」を挟むことで、すべての人間にとっての到達不可能な愛を表現している。ここではもはや「人形」という「幻影」さえも人と形に分かたれ、「人形愛」という語そのものの脱構築がなされていたのである。
谷川はまた「ピグマリオニズム」という言葉のもう一つの曖昧さを同じ論考のなかで指摘していた。それは人形を人間のように愛することと、人間を人形のように愛することが、この言葉においては混同されている、ということである。そこで谷川は「無機的な『ひとがた』を生身の女のように愛すること」を本来の意味での「ピグマリオニズム」、「生きた女を死んだ人形のように愛すること」を「逆ピグマリオニズム」と呼ぶことを提言した。
ただしここで論じられているピグマリオニズムにおいては、人形は女、人形化されるのも女、という前提があった。たしかにピグマリオンは男性の彫刻家であるから、この原型は「主体」としての「男」と「客体」としての「女」の関係である。しかし実際には、多くの創作人形は女性によって作られてきた。すなわち女性が女性の人形を作ってきた。また男性が男性の人形を作るケースもしばしば見られた。それゆえ「人形をつくる者、あるいは所有する者」と「人形としてつくられる物/者、あるいは所有される物/者」、この関係性に性別を加えてみるとヴァリエーションはもう少し増えるだろう。たとえば以下のように。
[ピグマリオニズム]
主体―客体(対象)
男―男の人形
男―女の人形
女―男の人形
女―女の人形
[逆ピグマリオニズム]
主体―客体(対象)
男―(人形化する)男
男―(人形化する)女
女―(人形化する)男
女―(人形化する)女
とはいえ、ここでいう「主体」が愛しているのは人形であるか人間であるかをはっきりと区分することは、それほど簡単ではないように見える。人形を人間と見間違えて愛してしまったホフマン『砂男』(一八一七年)のナタナエルは、生きていない人形を愛していたと言いきれるのだろうか。硝子越しに見た生身の女性を愛することと、映像の中の女性やアニメの女性を愛することの間に、どれほどの違いがあるのだろうか。愛する対象によって「主体」の愛の在り方を分類することは、実は予想外の困難を含んでいるように見える。
人間の人形化
しかしこの分類のおかげで、逆ピグマリオニズムにおいて明らかにピグマリオニズムと異なる一点が明確に浮かび上がってくる。それは「客体」の側の問題である。「主体」の「幻想」にとって「客体」が人形であるか人間であるかは大した問題ではないかもしれない。あるいは不分明でさえあるかもしれない。しかしそれでもそこにいるのは、やはりもう一人の人間なのである。人間には男も女もいる。人形化される人間には男も女もいる。しかしここでは「人形愛」の最初の定義であった人形=女性という前提に戻って、そこから考え直してみよう。
女性をオブジェ化することを美しい物語に仕立て上げることはしばしばなされてきた。それは通常の性愛とは異なる特別の物語として語られる傾向がある。しかしこの世界で「女性」とは流通する「商品」である、ということを考えれば、女性の人形化を美化したり特権視する理由はない。子産み機械であれ、性的奴隷であれ、生きた人形であれ、女性という商品が目的別に使い分けられているに過ぎない。女性がそこから逃れる術はない。そして商品であることから免れることができないならば、では進んで商品になってみよう、という心性が養われるのも故なきことではない。
「活字の国のピュグマリオン(註8)」のなかで千野帽子は、「人形がほしい」と「人形になりたい」という二つの欲望とその違いを、活字になった様々な作品を通して分析している。たとえば澁澤龍彦は少女の「人形がほしい」と考えた。それは突き詰めれば「純粋客体(オブジェ)少女の夢想」なのであった。この「主体・男」「客体(オブジェ)・少女」を反転し、「主体・女」「客体(オブジェ)・少年」としたのが、髙橋たか子、長野まゆみ、笙野頼子の少年人形小説であった。さらにこのような男女間の反転ではなく、役割はそのままに「逆読み」するケースがある、と千野は分類していた。それは「みずからを『見る主体』の側ではなく『見られる客体(オブジェ)』の側に置いてみる夢想の形態」である。たとえば小川洋子の『薬指の標本』(一九九四年)に見られるような「少女が客体であろうと主体的に欲する、という事態」。それはいわば「澁澤パラダイムの美意識」の「逆読み」である。千野によれば「現代はまさに逆読みされた澁澤的キーワードの大量消費時代」である。
しかし、少女や女性が「見られる客体(オブジェ)」を引き受けるということ、それ自体は特に目新しいことではない。それが新しく見えるとしたら、女性が自分の欲望としてそれを引き受け、自らの意志でそれを実行しようとしているように見えるからであろう。しかしこの意志の究極形が「死」にいたるしかないこと、それはすでに半世紀前に『O嬢の物語』(一九五四年)が、「削除された最後の章」において暗示的に示していたことであった。
純粋客体になること、意志のない人形、男性の玩具となることを自ら求めるこの物語の女性主人公は、当時最先端の女性の仕事であるモード写真家という設定であった。彼女は近代社会が作り上げた自立した女性の一人であった。そしてモード写真家であるということは、女性の身体が商品であることを熟知した女性であったということだ。そしてこの作品の匿名の作者もまたそうした女性の一人、ドミニック・オーリという女性編集者であった。そうした自立の意志に早くから目覚めていた女性たちが、むしろ過激に自らの身体を何ものかに捧げようとしたこと、そこに女性性の逆説があるように見える。
しかしこの作者の作家として明晰かつ誠実なところは、その死にいたるしかない残酷な結末を物語の最後で暗示していたこと、そして実はその死は欲望の成就などではなく、欲望の成就の不可能性を目の当たりにした主人公が、その絶望を逆手に購う行為として死を選ぶ、という無惨な結末でしかなかったことを、美しい物語のその先に描いていたことである。あるいは深読みするならば、こうして主人公を殺しておくことは、彼女自身が死なないための方策であったかもしれない。
「受動」という言葉
男性のマゾヒスト(たとえばマゾッホ)は、相手の女性と「契約」を結ぶことによってその関係を括弧に入れた。それは死を避けるための知恵である。一九世紀後半から二十世紀の半ば頃まで、精神に異常をきたして時には自殺にまでいたってしまう女性の表現者(たとえばベルメールの相方であるウニカ・チュルンのように)が多く存在したのは、自分の心身を賭した危険な賭けに身を投じてしまうその結末がいまだはっきり見えていない時代だったからであろう。
人形になるということ、徹底的に客体となるということ、純粋に受動形であることを文字どおり実行しようとする心性はどのようなものなのだろうか。「能動―受動」とは言葉である。それゆえ「受動」という言葉が強く身体に刻印され、それは「女性」において文字どおりに実行されなければならないものと思うにいたるには言葉を経由しなければならない。いかに逆説的に見えるとしても、女性的であることと言葉に長けていることはパラレルなのである。
女性が自ら人形になろうとして、それでも死を避けることができているとしたら、それは言葉をそれほど信じていないか、言葉を厳密な意味で理解していないか、あるいは逆に、言葉の効力をより深く知っているがゆえに、男性のマゾヒストのように契約か、それに代わる何らかの方法で己の欲望を括弧に入れることができているか、そのいずれかであろう。あるいは自分自身を殺さないために身代わりとしての「人形」を女性たちが製作しているという可能性も考えられよう。あるいは自ら人形になる行為を「人形遊び=ごっこ」にしてしまうことで括弧に入れようとしている女性たちもいるだろう。しかしそこに自らの心身が賭けられている以上、時にそれが危険な賭けになってしまうことに変わりはない。
こうした「人形になりたい」という女性の欲望と「死」の問題に正面から取り組んだ作品として、多和田葉子の『聖女伝説』(一九九六年)が挙げられる。『聖女伝説』はその下敷きをホフマンの『砂男』においている。重要な登場人物は主人公、主人公の父、父の分身である鶯谷という中年男である。それは『砂男』の主要登場人物に対応している。その簡単な対応表を次に載せる。
『聖女伝説』 『砂男』
主人公 ナタナエル/オリンピア
父 父/スパランツァーニ
鶯谷 コッペリウス/コッポラ
『砂男』においては、主人公は青年ナタナエルと彼の「人形愛」の対象である自動人形オリンピアに二分されている。オリンピアにとってナタナエルの父の役割を果たすのが、彼女を製作したスパランツァーニ教授である。そしてナタナエルが幼い頃、その目玉を奪われそうになった「砂男」を思わせる父の友人である弁護士コッペリウスは、オリンピアを壊してその目玉を奪い取ってしまう眼鏡屋コッポラの分身である。そして父とスパランツァーニ教授が「良き父」であるならば、コッペリウスとコッポラは主人公に去勢を迫る「邪悪な父」である。
ナタナエルは幼い頃、この父の友人コッペリウスによってその身体をつかみあげられ、手足を折り曲げ、押したり引いたり、左右にねじり回されたり、人形のように扱われたことがあった。オリンピアもまたその身体をコッポラによってねじ曲げられたり外されたりする。フロイトによれば自動機械人形オリンピアは、ナタナエルが「幼い頃父親に対してとっていた女性的態度が実体として表現されたものに他ならない」(フロイト「不気味なもの」一九一七年)。ナタナエルのオリンピアへの愛がナルシス的である、というのはこの意味においてである。男性の人形愛の一つの典型的な在り方がここにある。
一方『聖女伝説』では、主人公はナタナエルとオリンピアのような分身の関係にはならない。人形と人間が分かたれる男性のケースに比して、『聖女伝説』は一見シンプルではあるが、女性主人公自身が主体であることと客体(オブジェ)(対象)であることを一つしかない心身で引き受けなければならないことで、この一人の女性の心身において、自分自身の欲望によって自ら引き裂かれていくような困難な事態が起こっていることを示していく。それは外からは見えにくく、当の女性にとっても分節しがたい出来事である。『聖女伝説』の主人公は、父とよく似た(父の分身である)鶯谷という男に九歳の時に一度人形=こけしにされる。そのシーンは幼いナタナエルがコッペリウスによって人形化されるシーンとよく似ている。ただし、ナタナエルの場合はその「去勢幻想」において目玉を奪われる代わりに手足を解体される一方、この女性主人公の場合は手足をもがれた一本の棒、男性器のようなこけしにされるという違いがある。主人公はここで聖女になるべく、人形になるべく選別された、と言える。あるいは自ら希望してそうなった、と言える。彼女は父の人形になりたいと一方で切実に願い、一方でそうなることを必死に拒もうとしているのである。
藤田博史「男と女 性別の論理式(註9)」によれば、女性にとっても男性にとっても、共に最初の対象は女性(母)である。男性は基本的にそのまま対象を入れ替える必要がない。一方女性は、対象を女性(母)から男性(父)に入れ替えなければならない。そのうえで父そのものではない男に向かわなければならない。このプロセスが、女性が女性になることの困難を表わしている、という。このとき、実は奇妙なことが起こっている。女性は(男性)対象を求める(女性)主体であるために、この世界(言葉の世界)においては(男性)主体の(女性)対象として自らを作り直さなければならない。「人形」という言葉に喩えられるような「対象」にならなければならない。すなわち「人形化」が女性の欲望となる、というのは、それが意識化されているか否かを問わず(この世界で)正常とされる女性にとって必然の過程なのである。「肉体に留ま」るにせよ「人形」を目指すにせよ、女性は男性の「幻想(ファンタスム)」を具体化して「見せる」ことで自らの欲望の実現を目指しているにすぎない。
多和田葉子の『聖女伝説』が凡百の女性の人形化の物語と異なるのは、この主人公が「聖女」となるのは、神=父の人形になるという美しい自己犠牲によって、ではないからである。新時代のこの聖女は、少女たちが死なずにすむために、彼女たちの持たされている欲望が言葉によるものだということ、そしてその呪縛を食い破るのもまた言葉なのだということを、自らの心身を賭けて示していくのである。ここでは女性が同性の「人形」という身代わりを作るという祈りにも似た方法とは別の方法、「人形遊び」ならぬ「言葉遊び」とその脱構築によって生き延びていく方向性が模索されているのである。
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註
註1 澁澤龍彦『人形愛序説』、第三文明社、一九七四年、所収
註2 『美術手帖』二〇〇六年三月号(特集・「彫刻」ってなんだろう?)、美術出版社、所収
註3、4、5 澁澤龍彦「少女コレクション序説」『人形愛序説』、第三文明社、一九七四年
註6 澁澤龍彦「女性不完全論」『エロティシズム』、桃源社、一九六七年
註7 『人形愛の精神分析』として青土社より二〇〇六年に出版
註8 『ユリイカ』二〇〇五年五月号(特集・人形愛)、青土社、所収
註9 藤田博史『性倒錯の構造』、青土社、一九九三年、所収
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